イノセント・ワールド



「いつかどこか誰かが拾って愛して貰えますように」

特段気持ち悪いとは思わない。
まるで壊れたレコードのように頭の中を巡っている言葉。
顔を上げると無意識にドアの方を見てしまう。俯き、また気がつけばドアを見つめている。その繰り返し。月子の行動こそがまるで壊れたフィルムのようだった。
だから月子は右手がドアを叩いて蜜夜が出てきた時、本当に驚いたのだ。
一体自分はいつソファから立ち上がりドアの前に立っていたのだろう、と。
「何?」
まじまじと自分の右手を見つめていた月子は静かな声で我に返った。
「あ、の」
蜜夜越しに見える部屋の天井は月子のいるメインルームと変わらない。ただ部屋の中からモーター音というかブゥンと鈍い音が聞こえてくる。
いったい何の音だろう?
「ルナ」
名前を呼ばれ、月子はギュっと掌を握りしめた。
「部屋に入ってもいい?」
返事は無かった。しかし蜜夜は躊躇いもなく身体をずらした。
言葉をどうして彼は惜しむのか、蜜夜を見上げると相変わらず無表情のまま。何を考えているのかさっぱりだ。
表情が出ないんだったらその分言葉は惜しみなく使うべきだ。せっかく綺麗な声をしているんだから・・・・・・。
「入らないの?」
ドアを押さえていた手を今にも離しそうに見えて月子は慌てて通り抜けた。
小さく口にした「おじゃまします」に、もちろん返事は無かった。

忘れていた。ここが『ひだまりのうた』と全く違う場所なのだということを。
月子はこの部屋にはきっと蜜夜の机とベッドがあるのだと思っていた。
しかし違った。
月子は目を丸くして部屋の中を見渡した。
「いち、に・・・・・・」
「何を数えてるの?」
「テレビ。8つ?」
「液晶画面は8つ」
そう、6畳ほどの部屋に液晶画面が8つもある。文字ばかりのものや黒い画面に白文字のものもある。すぐ下にキーボードが、こちらは3つ。
それから椅子が一つ。
円を描くように配置されていた。
「ここ何する部屋なの?」
月子が思わず呟くと椅子に座ろうとしていた蜜夜が振り返った。
「色々」
色々!なんて都合の良い言葉だ。
月子が文句を言おうと口を開くより先に蜜夜の指が踊るようにキーボードへ触れた。
触れたというのは生ぬるい。実際は叩いたの方が正しい。
キーボードからはカタカタなんて可愛い音じゃなくてガガガッという工事現場のような音がしている。モーター音も聞こえなくなった。
月子は言葉を失ったがもう蜜夜はこちらを見てなかった。
チカチカめまぐるしく変わる画面に釘付けで月子は握りしめていた手をそっと解いた。
そのタイピング技術すごいですね。もちろんそんな言葉がかけられる空気じゃない
よく分からないが色々、することがあるんだろう。
ありがたいことに床は分厚い絨毯。隅にはクッションとタオルケットが一つずつ転がっている。
(・・・・・・色々が終わったら話しかけてみよう)
それまで大人しく待っていよう。そう言い聞かせる。
・・・・・・この時はまさか30分経ってもただの一度も蜜夜が顔を上げないなんて思わなかった。
時間だけがジリジリと過ぎて行く。
・・・・・・もう無理!
「蜜夜君っ」
「何?」
返事は返って来たけど手はよどみなくタイピングを続けている。本当に泣きたい。
「い、忙しいの終わったら話し・・・・・・したいんだけど」
「どうぞ」
「どうぞぉ?」
思わず悲痛な声を上げてしまった月子に今度ばかりは蜜夜も顔を上げた。
「どの辺がどうぞなの?忙しいの全然終わってないのに!」
蜜夜は表情を変えないまま口を開いた。
「話しがしたいなら、どうぞって意味」
「聞いてほしいんじゃなくて、話しがしたいの!だからそのパソコンが終わってからで良いのっ」
耳を傾けてほしいじゃなくて会話をしたいのだ。どうして伝わらない。
「手と口は本来別々に動くものだから理解しかねるけど・・・・・・もしかして僕が手を止めるのを待ってた?」
「・・・・・・うん」
こっくりと頷くと蜜夜はキーボードから手を離した。椅子ごと方向を変え、月子と向き合う。
あまりの躊躇いの無さに月子の方が心配になったくらいだ。そして三十分を返せ!と言いたい。
「話しをするんじゃないの?」
「う、うん」
すぅ、と一つ深呼吸をする。腹は括った。
「私、自分の色嫌いなの。目も髪も」
「僕は嫌いじゃない」
気持ち悪いと思わない。の上嫌いじゃない宣言。月子は怯みそうになったが何とか堪えた。
「何で?」
「ルナの一部だから」
「・・・・・・蜜夜君って生き別れのお兄ちゃんとかじゃないよね?」
「何故?」
だって有り得ないでしょ、と小さく呟いた。
普通は、誰も受け入れない。誰からも受け入れられない。
赤い色は決して混じり合えない。
記憶は音から始まる。
「気持ち悪い」と何度言われただろう「化物」「近寄るな」と何度言われただろう。
毎日日焼け止めをこれでもかと塗って、前髪を伸ばして人の顔色をうかがって。
どれだけ努力したって赤い色は決して。
「アルビノと立花月子」
月子は長い前髪越しに蜜夜を見上げた。
唐突すぎる言葉にどんな意味が込められているのか分からなかったからだ。
「ルナを探す手掛かりはそれだけだった。正確に言えばアルビノであることから調べ始めて該当した名前がルナのハンカチに入っていることに気付いた。つまり、ルナがアルビノだから早く見つけることが出来たということ」
「目印になるから・・・・・・嫌いじゃない、の?」
「違う。アルビノのルナじゃなくてルナがアルビノだから」
まるで言葉遊びをしているようだ。
不機嫌です。と思いっきり顔に書いて蜜夜を睨んでも彼は眉ひとつ動かさない。
それは話をうやむやにするのではなく、真剣に話をしているからなのか。
・・・・・・真剣、なのだと思う。そこまで思考を巡らせて月子は慌てて頭を振った。
危ない、危ない。
「ルナが無理やり受け入れる必要は無い。ただ大多数が否定したからと言って僕を枠に当て嵌めないで欲しい」
欲しい、それはすなわち懇願。のはずなのにやはり彼の表情は全く変わらない。
月子は少しだけ理解した。そして困っていた。
(だって人は嘘付きだもん)
ほんの少し前の月子だったら喜んで蜜夜に抱きついたかもしれない。・・・・・・いや、抱きつきはしないか。笑ってお礼は言ったかも。
信じていた先生が裏の顔を持っていたことは月子の中で何かを壊した。
(信じなかったら裏切られない、し)
自己保存の本能、というものらしい。
怖い、誰かよりも自分を守りたい、そう思うことを自己保存というそうだ。図書室の本にそう書いてあった。
テレビはお兄ちゃんとお姉ちゃんが優先だったから部屋で本を読むことが多かった。それに本を読むのは、私だけの世界に入って来ないのは安心できた。
「ルナ」
訥々と思考に耽っていた月子に静かな声がかかった。
もちろん、一人しかいない。
漆黒の瞳が羨ましい。濡れ羽色の髪が羨ましい。蜜夜は月子の理想とする全ての色を持っている。
一体彼は何を考えているんだろう。
「蜜夜君は何がしたいの?」
「何、って?」
「無償の優しさなんて私信じてないよ」
「優しさと思うのは価値観の違い」
「え?」
「だからルナが優しいと感じることと僕が優しいは必ずしも一致しない」
ちょっと待って、と手を上げて月子は頭を抱えた。えっと、それってつまり。
「・・・・・・蜜夜君は優しくしてるつもりはない、ってこと?」
ゆっくりと蜜夜が瞬きをした。手を伸ばしてくる。
どうして良いか分からず動けなかった。慌てて目を閉じたと同時に白い手が額に一瞬だけ触れる。
「ルナが僕の傍にいること」
目を閉じていても視線を感じる。
この言葉を聞くのは二度目だ。傍に居るってどういうことなのか、まだよく分からない。
気持ちは消化出来ずにぐずぐずと心の中に残っている。だから手が離れても目を開けられなかった
「それで16歳になったらお嫁さん?」
「理想を言えば。だけどそこは譲歩する」
ジョウホ、どんな字を書くんだろうと身動きをしないで考える。
分かったこと、彼は優しい、と私が思うこと。
それでもまだまだ知らない事ばかりだ。
「蜜夜君は何歳?」
「今年で14になる」
「じゃあ中学生だ」
今13歳なら1年生だ、と月子はまだ行ったことのない中学校に想いを馳せる。
制服を着て、ランドセルじゃない鞄。プリーツのスカートに先輩に部活。
「学校には通ってない」
中学校の話を聞こうと開いた口は「うぇ?」と変な言葉を発した
「中学校って義務教育じゃないの?」
「大学まで修了してるから」
どうにも会話がかみ合わない。学校に通わなくて良い終了って何だろう。
後になって考えれば確かに普通の13歳は最高級ホテルの一室で8台のパソコンをフル活動させたり、どんな気まぐれでも10歳の少女を引き取る、ことを実現させないだろう。
「じゃあ蜜夜君は何してるの?」
「今は分子生物学と進化生物学。」
初めて聞く言葉に月子が首を傾げると蜜夜は「分子生物学と進化生物学」と繰り返した。
「それをしてたら学校行かなくて良いの?」
「それは全く別の事柄だと思うけど。分子生物学と進化生物学に限らず色々追求すべきことはある」
色々、と月子が小さく繰り返す。蜜夜は頷いた。
「セノさんも色々?」
「セノは職場。肩書きがあるから行かない訳にはいかない」
「お仕事?」
「そう。医師」
「お医者さんなの?セノさんって」
「うん」
本当に知らないことだらけだ。ここは
スーツをきっちりと着こなしていたセノの姿を思い浮かべる。スーツ姿しかみたことのないあの人が白衣というのは想像できなかった
「一度見られたから同じという訳ではない?」
何が、なんて言わなくても分かる。月子は一層固く瞼を閉じた
「今までずっとこう、だったから。・・・・・・そのうち、大丈夫になる、かも?」
「疑問形?」
「だってわかんない」
「不安と焦燥感」
ゆるゆると蜜夜の手が頬を撫でる。触られてるのは頬なのに何でか背中がくすぐったく感じた。
「声のトーンから感情のベクトルは怒寄りの哀」
「え?」
「眼球の動きも見たかった」
蜜夜の手は何かを探すように時々頬に触れ、また離れを繰り返している。
・・・・・・そうか、観察されているのか。
「触れるのは嫌?」
「今みたいなのは大丈夫」
「僕の傍に居るのは?」
「・・・・・・へーき」
心の中で今のところは、とこっそり付け足す。
「目を見られるのが嫌?」
「うん」
目を閉じて、声しかしない部屋。とても無機質だと思うのになんでだろう。
嫌じゃない。
「眠い?」
囁くような声に月子はゆっくりと目を開けた。
漆黒の瞳がジッとこちらを見ている。
無表情で吸い込まれそうな程綺麗な漆黒色。好奇心や嫌悪感をカケラも見せない蜜夜。
「眠い?」
返事をしない月子にもう一度同じ言葉を掛ける。
全然眠くない。だけど月子は頷いた。それと同時に蜜夜が手を離す。
月子は立ちあがる。ドアを開け、振り返っても蜜夜はもうこちらを見ていなかった。彼の視線はパソコン一直線だ。
お邪魔しました、ばいばい。失礼しました。何か言うべきだろうか、と悩んでいたのが恥ずかしい。
「おやすみっ」
結局悩んだどの言葉でもない台詞を背中に投げつけるようにして月子は蜜夜の部屋から飛び出した。

「僕は嫌いじゃない」
そのたった一言でこの身を捧げられる綿菓子のような神経はしていない。
だけど・・・・・・無表情だった。
無表情で蜜夜は言った。嫌いじゃない、と。
貼りつけた笑みよりも嘘っぽい憐れんだ表情よりもずっとマシだ。
走った訳でもないのに心臓がぎゅうぎゅうと音を立てている。走った後の苦しさとは違う。
指先が痺れるような感覚が痛いのか気持ち良いのか今の月子にはまだ分からなかった。