第五章「いつかどこか誰かが拾って愛してもらえますように」2





「セノ、月子」
「戸籍上はそうなる」
「どんな字書くの?」
するとすかさず紙が差し出された。戸籍謄本、というものらしい。
瀬野 月子

朝と夜にしか現れないセノ。本当にこの大きなホテルの一室は蜜夜のためだけに存在しているらしかった。
あのたくさんの機械に囲まれて蜜夜は色々、しているらしい。
色々、聞けば蜜夜は説明してくれるが月子にはまるで異国の言葉のように聞こえる。
「無理に理解する必要はないよ」
「・・・・・・私が6年生になったら分かる?」
「理解しようと思えば今すぐでも勉強すれば良い」
何て事ないような口調で告げる蜜夜から月子は目を離してこっそりと溜息をついた。目の前にある漢字ドリルよりも難しいことはとても覚えられそうにない。
同じ言葉を何度も書くことに何の意味があるの、と蜜夜は本気で聞いてきた。
宿題なの、と言えばとても珍しそうにドリルを捲っていた。
一度も見たことが無いなんて。
「ドリルって毎年やらなきゃいけないんだよ」
「この一冊を一年もかけて解くの?」
もう何度目かになる、ちぐはぐな会話をした。
蜜夜は月子の知っているどの男の子達とも違っていた。『ひだまりのうた』にいたお兄ちゃん達とも違うと思う。
一日の殆どをあの部屋に篭って過ごしている。
それを羨ましいなぁと思うし時々は寂しいなぁとも思う。ご飯の時に瀬野にそう漏らせば困ったように小さく笑われた。
そうか、蜜夜にとって瀬野にとってそれは当り前なのか。
「常識とは個人の偏見による知識だ」
蜜夜はそう言って、ランドセルをひっくり返した。
「あぁっ」
せっかく詰め込んでいたものが見事にばらまかれる。
教科書にノート。それから筆箱。
蜜夜に「全部捨てて」と言われた時はぽかり、と口が開いてしまったがようやく理解した。
立花月子という名前が自分の名前じゃなくなったのだと。
瀬野月子。
捨てたら明日から学校に行けない。そう言えば行かなければ良い。なんて返事をもらった。じゃあそうします。そんなこと言える訳がない。
「駄目だよ。私は蜜夜君みたいに終了してない」
「じゃあ新調すれば良い」
「使えるのに?」
「・・・・・・」
結局名前を書き直すということで落ち着いた。
瀬野月子、と。
瀬野、と名乗る。親子になった。まるで本当の。親子。家族。
蜜夜は何も言わずにじっと見ている。
「なぁに蜜夜君」
「タマキって名乗って欲しい」
月子は首を傾げる。
「蜜夜君はタマキなの?」
「そう」
「でも私は瀬野なんだよね?」
「ルナは瀬野の養子だから」
「蜜夜君と瀬野さんは親子じゃないの?」
「違う」
そう言われると蜜夜と月子には何の繋がりも無いのだと思い知らされる。
朝と夜にしか会わない瀬野よりも蜜夜と一緒にいる時間の方がずっと長いのに。
月子は更に疑問をぶつけた。
「名乗って良いの?」
この質問を蜜夜は黙殺した。つまり、駄目なのだなと月子にも分かった。
「タマキってどんな字書くの?」
「循環の環。もしくはリングの環」
蜜夜の指が月子の掌に触れる。
月子も随分色白だが蜜夜の指も白い。
掌を行ったり来たりする人差し指を目で追いかける。
不意に蜜夜が反対の掌を差し出してきた。
少し考えて月子も同じように人差し指を伸ばす。
環という字を蜜夜の掌に書いて見せた。
環、環月子。
夜の髪と瞳を持った少年が、大きくて小さなこの、一室の創造主が、そう変化させようとする。
環、月子。
赤い瞳が、白い指を追いかける。
「ルナ」
そう呼ぶのは蜜夜だけで、だけどそう呼ばれてもすぐに返事が出来るようになった。
ルナと呼ばれることが当たり前のように。
「なぁに?」
「環って名乗って欲しい」
一度離れた白い指がそっと前髪に触れた。瞼を閉じる。
蜜夜の指は額に、瞼に、頬に触れている。まるで赤い色を探しているようだ。

「いずれ環になるのなら今から名乗っていても変わらないと思う」
蜜夜の言葉にそうだね、と頷きそうになって止まった。
・・・・・・いずれ環になる?
「環になるかはまだ分かんないよ」
それでは結婚することが確定しているみたいじゃないか、と月子は慌てて訂正する。
「何故?」
「だ、だって結婚するって決まってないもん」
後々考えてくれれば良いって言ったじゃない!
まさかこの数日のことじゃないよね?と月子は嫌な汗が吹き出した。
例えば蜜夜君が誰かと結婚して、私も誰かと結婚してそうして一緒じゃなくなるかもしれない。どうして彼にはその考えが浮かばないんだろう。
「僕の理想は婚姻関係だけど、ルナが絶対に承諾しなかった場合は養子縁組するから」
「蜜夜君と私が?」
「そう。だからルナは環の姓になる」
顔を上げればじっとみつめてくる蜜夜に黙って俯いている瀬野。
瀬野になって、今度は環になって、私は何回名前を書き直すんだろう、と考える。
「でも、今は、瀬野、なんでしょ?」
それくらい分かるぞ、と一つ一つ言葉を区切ってみると蜜夜は「そう」と呟いた。
諦めたようだ。
まるで一仕事終えたかのように月子は息を吐く。蜜夜を言い負かしたようなちょっとだけ満足感があったからだ。
そうしてようやくランドセルを持ち直した。

平日は月子にだって用事がある。学校だ。


「あっ月子ちゃん」
「月子ちゃん!」
教室へ入ると同時に寄って来たクラスメイトにぱちぱちと瞬きをしてしまう。
クラスメイト兼ルームメイトだ。
「ねぇねぇねぇどうしたの?」
「月子ちゃんは最初っからいたのに、だからびっくりしてたよ。みんな!」
くるり、くるり、言葉が入れ替わって同時に2人に話しかけられているからか月子は自分の要領が悪いのか悩んだ。つまり、何を言っているのかさっぱり分からなかったのだ。
「先生がすごぉく悲しそうだったんだから!」
びくん、ランドセルを握っていた指先が揺れる。小さく口が開いて「あ」と間抜けな音が零れた。
先生。
それが誰を指すのかすぐに分かった。担任の先生じゃない。
「立花先生のお気に入りだったじゃん」
立花先生。
「そ、そうかな」
「そうだよぉ。月子ちゃんが居なくなって先生ってばすっごくしょんぼりしてさ」
「そうそう。で、月子ちゃん今どんな感じ?」
「えっと・・・・・・」
駄目だ。切り変えなきゃ。先生じゃないこと、考えなきゃ。
垂らされた長いおさげの先を意味もなく弄ぶ。月子の癖だった。
「し、しずか」
「静かって?」
「あ、んまり話し、とか、しない」
「じゃあ何するのぉ?」
何、と言われてコレ!といえるものが何も浮かばない。蜜夜は部屋に篭ってるし瀬野は朝と夜しか会わない。出掛けて無いしそもそもホテルに住んでるとか言ったらいけない気がする。
こんな時、何て言えば良いんだろう。
「あっ月子ちゃん名前変わってる!」
月子の持ち物を見て2人は声を上げた。
「ホントだ。せのって読むの?」
話がそれたことにホッとした。更に先生が教室に入って来て2人とも自分の席へと戻って行く。
そろりそろりと月子も席に着く。まだ胸はドキドキしていて苦しい。
朝から頑張って結いあげた三つ編みは少しほつれてしまっている。無理やりたくし込んで前髪越しに教室内を窺った。
(なんだか、ちょっと違う場所みたい)
金曜日と何も変わって無いはずなのに何故だかそう思ってしまった。