「月子ちゃん」
自分の名前を呼ばれただけなのに肩が揺れてしまったのは久しぶりだったからだ。
喧嘩した訳ではない。だけど一緒じゃなくなった元ルームメイト達は幾日ぶりかに月子を取り囲んだ。
「な、ぁに」
「今度の日曜日、暇?」
日曜日?ぱちぱち、と月子が瞬きをしている間に一人が口を開く。
「遊びにおいでよぉ」
また一人。
「お姉ちゃんも先生も月子ちゃんに会いたいって」
その言葉はまるで冷水のようだった。
「先生ねすごぉく心配してたんだよー。月子ちゃんが元気にしてるかなぁって言ってたよ。お姉ちゃんもね、会いたいって!」
口々にそう言う。そう、月子を誘うために。
気持ち悪い。月子は瞬時にそう思った。
思ってないのに。心にもない言葉を並べているのだ。
何か言わなくては。でないと無理やりに連れていかれてしまう。あの、獣の前に。
「あ、あの!」
俯いたまま月子はようやく口を開いた。
月子を置き去りにして可愛らしくおしゃべりをしていた少女達はピタリと口を閉ざした。
「・・・・・・家の人に聞いてから・・・・・・良いって言ったら行くね」
頑張って笑ってみる。うん、そうだね。なんて言葉は酷く白々しく聞こえた。だって誰も来てほしいなんて思ってないから。
勿論、瀬野に伺いたてるつもりなんて無かった。
だって行きたくない。
どうして突然そんな事を言われるのか分からない。だから怖い。
いつもよりゆっくりと時間が経っているんじゃないか、そんなことを考えてしまうくらい学校が長く感じた。
ホテルに帰って部屋に飛び込んでランドセルを放り投げるとようやく息を吐ける。
放り投げられたランドセルがボウン、と鈍い音と立てて跳ねたように見えたが気のせいだ。うん。
むぎゅーっとお気に入りのクッションに抱きつくと、少しずつ声が遠くなる。
(そうだよ、此処まで来ること無いんだから)
頭の中を追いかけるように流れていた台詞。会いたいって、先生が。お姉ちゃんまで。
どうして?
「ルナ」
ふわりと声が降ってくる。動くのが億劫で顔も上げなかった。決して温かくはない手が月子の髪を弄る。ヒタリ、首筋を掠めてそれがくすぐったくて寝返りをうつ。
「蜜夜君・・・・・・」
「鞄があんなに遠くにあるよ」
「うん」
知ってる。何せ自分で投げたんだから。蜜夜はただその事実を告げるだけで怒らなかった。拾ってきてくれもしない。
「蜜夜君」
「なに」
月子を獣から守ってくれた人。月子の赤を嫌いじゃないと言った人。逃げられないはずだった箱庭から出してくれた人。
ねぇ。
「どうして優しいの?」
「優しいと思うのは価値観の違いだって前も言った」
そうだ。蜜夜は優しくしているつもりはないらしい。
今、ここで何も聞かず傍に居てくれることがどれだけ嬉しいことなのか。月子がどんなに救われたと思っていても。
(どうして人の心の中って見えないんだろう)
分かったら良いのに。
ぐちゃぐちゃになった感情に振り回されて泣きたくなる。
「・・・・・・私が学校行きたくないって言ったらどうする?」
「行かなければ良い」
きっとそう言うと思った。思った通りの答えに笑みさえ零れそうになった。
「そうだね」
だけど無理だ。
きっと月子は明日も学校に行かなければいけない。蜜夜は朝行く月子を見送ることもないだろう。分かっている。
蜜夜の言葉はその名の通り蜜のように甘く、夜に包んでくれるようで月子は少しだけ呼吸が出来る隙間を見つけた気分になった。
優しい。優しいと月子は思う。
「ありがとう」
「何に対して?」
蜜夜はさも分からない、とすぐにそう返してきた。分からなくて良いのだ。
「蜜夜君が優しくしたつもりじゃなくても私が嬉しかったから」
きっと伝わらないだろう。