第六章「きずあと」
「瀬野さん」
月子は図書室に向かっていた。
「瀬野さん」
お昼ごはんを急いで食べて図書室に行くのが月子の日課だった。
「瀬野さんっ!」
突然肩を掴まれて月子は飛び上がるくらい驚いた。
「先生が呼んでたの聞こえなかった?」
「えっ」
セノサン。
あ、私だ。
「急いでるみたいだったけど、また図書室?」
「はい」
「・・・・・・瀬野さん最近あんまり教室で友達とおしゃべりとかしないのね」
全くその通りなので月子は黙っていた。
「本読むのも良いことだけどお友達は大事にしなくっちゃ。ね?」
「・・・・・・」
「それにほら、ずっと一緒にいたんだからもう、家族みたいなものでしょう?お家が変わったからって遠慮することないのよ」
月子は何も言わない。喧嘩したの?新しいお家に馴染めないの?何か悩みがあるならいつでも言って。先生待ってるからね。
全く口を挟む隙をくれず、肩に二回触れて足音が遠ざかる。
小さくなる背中にあっかんべ、をした。
なんとも的外れな言葉だった。大事に、って変なこと言われた。遠慮なんてしてない。
それは一種の傷の舐め合いに似ていた。学校でも『ひだまりのうた』の子達と一緒に居ることが多かったのはきっとそのせいだ。
施設を出て少しずつ、ズレていると思った。隣に座ってもお喋りをしても何か変だった。
月子だけじゃない。きっとみんな感じていたのだろう。だから何となく、一緒に居なくなった。
そうすると女の子とは不思議なものでみんな綿菓子みたいにふわふわしているのに隙間が無くなってしまうのだ。
つまり、月子はグループというものからポイッと転がり出てしまった。
図書室で本を借りるのは最早日常の一部で司書の先生に会釈をする。
新刊コーナーで一番分厚い本を選んで貸出カードに名前を書いた。
瀬野、月子
歪でまだ上手に書けない。名前。
***
(朝は蜜夜君と会ったっけ・・・・・・ううん)
背中を丸めて本を読んでいた月子は考える。
姿勢が悪い、と『ひだまりのうた』では良く怒られていたがここでは月子を叱る人間もいない。
「外で遊びなさい」「もっとみんなと一緒に遊びなさい」「前髪を切りなさい」とも言わない。
養子縁組をした、父親という家族。でも『お父さん』とは違う。
じゃあ蜜夜は?
彼は一体何なんだろう。
『ひだまりのうた』に隠れていた立花月子は小さくなって今にも消えてしまいそうだ。小さく、小さくなっていく。
「ルナ」
月子をそう呼ぶのはいつまでも1人しかいない。ゆっくりと顔を上げると伸びてきた手が頬に触れた。
高い天井。音のならない絨毯。掃除のためにやってくるホテルの人。チャンネル争いをしないで良いテレビ。好きなだけジュースが飲める冷蔵庫。
思わず目を閉じて口も一文字にする。閉じた瞼の上をそうっと指先が通り過ぎた。
蜜夜は一日の殆どをパソコンが敷き詰められた最奥の部屋で過ごしている。
だから一緒に住んでいるのに、まるで一人のようだ。
そして一人が二人になってもやっぱり静かなのだ。
何も言わず時々思い出したように、蜜夜は月子の隣にやって来てその白い指先を、漆黒の瞳を月子へ向けるのだ。
月子の世界を変えてしまったこの部屋の創造主は何故、顔に髪に、肩に掌に時々、思い出したように触れるのだろう。
月子は考える。だけど分からない。
「ルナ」
とうとう月子は目を開けた。ゆっくりゆっくりと瞼を持ち上げる。
眼下を埋め尽くす漆黒色に思わずため息が漏れた
「・・・・・・良いなぁ」
漆黒。それは月子の身体中どこを探しても無い色だ
「何が?」
「真っ黒だから」
編み込んで誤魔化している髪もやたらと白い肌もそして何より赤い瞳。
「ルナは僕みたいな髪色にしたいの?」
そう言われて考えた。真っ黒な髪をした自分を。
考えれば考えるほど黒い髪で人の形をした何かは自分じゃなくなる。
「僕はルナがルナだから良い」
「・・・・・・そんなこと言うの蜜夜君だけだよ」
本当は違う。
『月子はそのままで良いんだよ』そう言ってくれる人がいた。たった一人だったけど月子にとってとても大事な人で大事な言葉だった。
今では思いだすのが痛いけど。
言葉はチョコレートよりも甘く、そして簡単に崩れてしまうのだ。
「僕がルナにそのままで居てほしいと思う事とルナが理想とすることは違う」
蜜夜の手が月子の頬、それから少し上目の横に触れる。
月子を少しだけ覆っていた影が遠ざかる。蜜夜が立ちあがったのだ。
まるで何もなかったかのようにまた、あの部屋の中へ消えてしまう蜜夜の後姿を月子はぼんやりと見ていた。
気がつけば空が群青色に変わっていた。もうすぐ夜がくる。群青も好きだけどもっと綺麗な漆黒。
蜜夜の色だ。唐突に月子はそう思った。
世界が蜜夜の色に染まってゆく。