第四章「愛に飢えた子供達2」



目覚めは爽快とは言い難かった。
いつもの見慣れた天井でもギシギシと音を立てるベッドでもないことに気付いても頭がぼんやりとしていて驚くことが出来ない。
起き上がると毛布がずり落ちた。絨毯の上に。
ぐるりと部屋を見渡すが誰もいない。
毛布を畳んで立ち上がる。足音ひとつしない摩訶不思議な絨毯の上を歩く。
耳を澄ますと何か音がする。月子は音に誘われ一つのドアをノックした。
返事はない。しかしドアは開いた。
「・・・・・・あ」
漆黒の瞳が何故か眩しそうに月子を見ていた。思わず月子も見つめ返す。
美しい漆黒の瞳を見詰めていると、ようやく眠る前のことを思い出してきた。
ここが『ひまわりのうた』じゃないこと、養子縁組したらしいこと、不思議な人達のこと。
そして自分は泣き疲れて寝てしまったらしい、ということ。
「ルナ?」
「お、おはよう・・・・・・ございます」
「おはよう」
月子の言葉を待っている風だった。寝起きの頭を必死で働かせる。ふと、浮かんだのはもう一人の不思議な人。
「・・・・・・セノさんは?」
「まだ来ないよ」
即座に返って来た言葉は予想外で思わず月子は繰り返した。
「来ない?」
「そう」
「セノさんってここに一緒に住んでないの?」
「住んでない」
「じゃあここには蜜夜君しかいないの?こんなに大きい部屋なのに?」
「大きいっていうのはルナの主観だけど。そうなるね」
やけに難しい言い方をされたがとにかく、月子が共同で使っていた部屋の3倍の広さはあるのに!
「セノに用事?」
「うーん」
「それって肯定?否定?」
「どっちにするか悩んでるの」
蜜夜は僅かに首を傾げた。
「変わった悩みだね。セノは7時には来るよ。急用なら電話するけど」
「そうなの?」
「そう」
急用という程じゃない、と思う。うん、たぶん。
「眠くないの?」
唐突な質問に月子は首を横に振った。
「眠くないよ?」
「そう」
何でそんなこと聞くの?と言う風に目を丸くしてみたが蜜夜には伝わらなかったらしい。
「シャワー使って」
「うん?」
何故、突然シャワー?
蜜夜は変わらない表情で告げた。

「鏡を見たら分かる。髪は鳥の巣みたいだし顔はもっと酷い」

次の瞬間、月子はありったけの力を込めてドアを閉めた。

***

まだしっとりと湿っていた髪をきっちり三つ編みに。前髪もブラシを当てて目にかかるように。
赤い色が前髪の影に隠れると、ようやくバスルームを出る決心がついた。
確かに、鏡の中の顔はお世辞でも可愛いとは言い難かった。。
ほつれた三つ編みはすぐには解くことが出来なかったし泣き腫らした顔は涙の痕が残っており、瞼が腫れていた。
時刻は6時。
つまり月子は夕方、泣き寝入りしてそのまま12時間以上眠り続けていたことになる。
信じられない。とお風呂場にあった時計を擦ってみたがもちろん時間が変わることはなかった。
出来るだけ静かにドアを開け、そして固まった
「怒った理由は?」
ドアの前に蜜夜が立っていた。
先程のように勢いよく開けなくて良かった、月子は密かに思った。
前髪の陰から覗くと蜜夜は無表情のまま僅かに首を傾げた。
何を聞かれたんだっけ。えぇっと。
「怒った、って?」
「そう」
怒ったというなら突然ドアを閉められた蜜夜の方ではないのか、しかし蜜夜は相変わらずの無表情である。
無表情は困る。怒っているのかどうか分からない。そういえば蜜夜が笑った顔を見たことがなかった。
「ルナ」
呼ばれているのが自分なのだと理解するのにまた時間がかかった。
そう呼ぶのだと彼は宣言したのを思い出す。
真っすぐに向けられた視線に逡巡し、ためらいがちに口をひらいた。
「怒ったんじゃなくて、えっと、恥ずかしくて・・・・・・ね?」
改めて説明するとなんとも情けない。つまりドアを閉めたのは八つ当たり、もしくは照れ隠しの部類なのだ。
しかし、蜜夜はまだ納得しないらしい。
「それで?」
それで?それでって何だ?
心を言葉にするのはとても難しいし何よりあんまり思い出したいとも思わなかった。
しかし蜜夜に無表情で詰め寄られると何か言わないと、という気持ちにさせられる。必死で言葉を探した。
「不細工って言われたら誰だって嫌でしょう?」
「不細工とは言ってないけど」
「でも酷い顔って言った」
「言ったね」
「うん」
しばらく見つめ合い。
「つまり見てほしくないという欲求からドアを閉めた。対象との間に壁を作り視界を遮った」
そこまで難しいことを言ったつもりはないが。会話を蒸し返してもきっと月子にはこれ以上の説明ができない。大人しく頷いておく。
蜜夜は納得したらしかった。
「成程」
そう一言。ふらりと部屋へと戻って行った。
・・・・・・彼の用事は済んだらしい。
残されたのは月子一人。
・・・・・・伸ばしかけた手が狼みたいな影になっていた。
ゆらゆらと左右に振ってみる。犬。獣。笑って人をかじる、獣。
「わ、ん」
ゆっくりと瞬きをして息を吸った。
まだ湿っている素足のまま絨毯の上に立つ。つま先でゆらゆらと歩きだす。
つま先立ちで部屋の中央まで歩き、ぐるりと部屋の中を見渡す。部屋の隅に乱雑に置かれた段ボールが目に映る。シャワーを浴びる際着替えを捜して崩した段ボールタワーの残骸。
中に入っているのはどれも月子にとって親しみのある物。
ゆらゆら、右へ左へ結った髪が揺れる。

部屋にそぐわない物は二つ。段ボールとわたし。

***

曰く、基本的に朝と夕方しか此処へ来ない
曰く、その時に食事を持ってくるがルームサービスを利用しても構わない
曰く、外へ出歩くよりまずはここの暮らしに慣れて欲しい
10秒の静寂。そこで月子はようやく顔を上げた。しかし、視線はまだあちこち彷徨っている。
蜜夜の言った通りセノは7時ジャストに現れた。朝食を携えて。
それが当然であるかのように彼は月子1人分の食事を並べ終えると。
「如何でしょうか?」
家族とは?
「如何・・・・・・でしょう?」
俯いたまま小さく呟いた。しかし、セノにはしっかりと聞こえたらしい。
「ご要望があれば遠慮なく仰って下さい。月子様のご要望に極力沿うよう努めて参ります」
ご飯は美味しい。だけどルームサービスっていうのは何ぞや?
お昼ご飯は自分で作るのかな。でも台所あったっけ?
外へ出なくて良いなら願ったり。暑いし、じめじめするし。うん。
3カ条に不満はない。きっと。
「私、何すれば良いんですか?」
「本日はどうぞゆっくりとお寛ぎ下さいませ」
「・・・・・・」
黙りこんだ月子にセノが更に声を掛ける。
「月子様?」
昨日、いや正確にはもう少し前かもしれない、親子になった人。
親子。
なのにまだセノさんという呼び名しか知らないなんて!
月子はゆっくりと口を開いた。
「セノさんはどうして私のこと、そうやって呼ぶんですか」
少しの間があった。そこに途惑いが漂っていた。

「・・・・・・蜜夜様がお選びになった方だからです」

聞かなきゃ良かった。そう思ってももう遅い。
『私はきっと月子様が望んでいるような関係を築くことはできません。』
そう、聞こえた。
結局、赤の他人なのだから。と。

ソファが浮島でこの部屋は海。
溺れないけれど何処へも行けない。そんなことを考える。
静かすぎる部屋。セノが出て行ってふかふかのソファを一人占めしながら月子は目を閉じていた。
こんな静けさは初めてだった。『ひだまりのうた』はいつだって騒音に溢れている。

不意に、何かが触れた。
(う?)
前髪に、何か触れてる。
とっさに月子は目を開けた。
「う、ぎゃぁっ!」
おおよそ女の子らしくない悲鳴を上げて月子はソファの端まで後退った。
月子の前髪に触れていたもの。それは手だった。
そしてその手の先には身体があり、当然のことながら二つの眼があった。
月子の悲鳴に驚いたのか、手は伸ばしたまま僅かに目を見開いた蜜夜がそこに居た。
「起きてた」
乱れた前髪を必死で撫でつける。未だに心臓は変な音を立てていて月子は泣きたくなった。
「お、起きてたらな、だめ?」
一体いつ部屋から出てきたんだろう。彼は。
ふかふかのカーペットの難点は足音がしないことだ。
ドアも然り、音がしないということはとても、とても月子にとって宜しくない。
「そこまで驚くと思わなかった」
ぽつりと呟かれた言葉に月子はそっと息を吐いた。
「声掛けてくれれば良かったの、に」
蜜夜に悪気は無かったのだ。そう言い聞かせてほんの少し不満げに言ってみた。
「顔が見えないから」
何気ない一言だったのかもしれない。しかし、月子には破壊力のある台詞だった。
また心臓が騒ぎ出す。
確かに、月子の前髪は長過ぎるだろう。たっぷりと厚めに作られた前髪は瞳を殆ど隠してしまっている。
邪魔じゃない、と言えば嘘になる。しかしそれでも、ピンで留めることもせず真っすぐに伸ばされた前髪には訳があるのだ。
わざと、だろうか?彼は知っているはずなのに。
口にするのが怖い。だって分かっているはずなのに。
じわじわとせり上がってくる息苦しさ。
「き、気持ち悪いでしょ、目の色が」
髪を伸ばしてる理由なんてこれだけだ。前髪で目を覆い尽くしてほんの僅かな安心感を得ている。
色素の薄い髪だってしっかりと編み込めば色が濃く見える。そのためのおさげ。
溶け込もうと必死なのだ。

「赤い色が?」

月子はただ黙っていた。口にするのも嫌だった。
・・・・・・髪のカーテン越しに視線を感じる。それがまた居た堪れなくて月子は一層俯いた。
「特段気持ち悪いとは思わないけど」
その言葉を理解するのに数秒かかった。
ソファが軋む音がした。
一体、何が。
「慰めてくれなくてもいいっ!」
顔を真っ赤にして月子は叫んだ。
「・・・・・・あれ?」
しかし、そこに美しい漆黒は存在しなかった。誰もいない。
視界の端ではドアが閉まるところだった。

唖然、と月子はそのドアを見つめる。
一体、何が。