イノセント・ワールド



第三章「引きずられる日常」


朝起きて、ベッドを整えて着替える。それから顔を洗って食堂に向かう。
朝食は施設にいる児童全員で頂き、それから各々学校に行く準備をする。
女の子たちは髪のセットに時間がかかったり、男の子たちは慌てて時間割を見たり体操服がないだの、その靴下は俺のだの、騒いでいると先生の声がする「ほら、みんな急ぎなさい!遅刻だよ!」その声を聞くと男の子も女の子もまるでロケットのように玄関に駆けていき、元気に挨拶する「いってきまぁす!」
中学生、高校生は自転車で、小学生は徒歩で学校へと向かう。
学校は施設から一番近い公立で、もちろん施設以外の一般家庭の子たちと一緒に一日を過ごす。
「おはよー」
「おはようー」
クラスメイトとごく普通の挨拶を交わす。
机を並べて、みんなで一緒に授業を受けて給食を食べて、また授業を受けて下校時間がやってくる。
「さよーなら」「ばいばい」「またね」
そんな挨拶を繰り返して各々下校を始める。
各々と言っても同じ時間に終わって同じところに帰るので何となく、施設の子たちと並んで帰る。
「あの先生昨日と同じシャツだった」とか「隣のクラスの子が6年生に告白されたらしい」とか。そんな事を言い合いながら皆でレンガ造りの門をくぐる。
あとは施設の運動場で遊んだり部屋で本を読んだり、時々は宿題もしたり。当番の子たちは先生のお使いを頼まれたりもする。
暗くなると夕食だよ、って先生が呼びに来て食べ終わったら順番にお風呂に入って明日は土曜日だから学校お休みだね、嬉しいね、なんて言いあいながら布団にもぐりこむ。
そうして一日の終わりを迎える・・・・・・筈だった。

まず、部屋のドアを開けたルームメイトは「なんか変」と戸惑い混じりに呟いた。
「どうしたの?」
後ろから部屋を覗きこんだ月子も違和感を覚えた。
朝と部屋の様子がどうも違う。
いや、ルームメイトよりも月子のほうが早く気付いた。
ゆっくりと部屋に入ろうとする友達を押しのけて月子は自分の机に飛びついた。
「・・・・・・ない」
何が、じゃない。
引き出しを力いっぱい引っ張るとスコンと軽い音がした。
続いて横に備えているカラーボックス。こちらも引き出しは軽々と開いた。
「月子ちゃん?」
「なんにもないっ!」
そう、違和感の正体は教科書も、壁に貼っていた時間割もそれどころか着替えも鉛筆一本すらも。何もかも綺麗さっぱり無くなった月子の机だった。
「月子!帰って来たのか!月子?・・・・・・あぁ、月子早かったね」
スリッパの音と共に立花先生の声が聞こえたが今の月子には振り返って「ただいま」という余裕なんて無かった。
「先生っ私の机なんにもない!」
「うん、先生もちょっと戸惑っているだ。何せ急だったから」
「教科書も、帽子もハンカチも!」
「うん、そうだね。月子ちょっと落ち着きなさい」
「あっ!リボンも無くなってる!」
「ホントだ。月子ちゃんの机綺麗になってる・・・・・・」
「綺麗じゃないっ全部無くなってるの!」
「月子!」
不意に腕を引っ張られ月子は悲鳴を上げそうになった。反射的に腕を外そうとするが大人の男の人の力にかなうはずもない。ほとんど引っ張られるような形で月子は部屋の外へ連れ出された。
「月子、一体何をしたんだい?あれは誰なんだ?」
「せんせっ・・・・・・離し・・・・・・!」
どれだけ慌てているのかしらないが腕を掴む力がどんどん強くなっている。
痛い。何を言われてるかなんて考えられなかった。
「一体どういうことなんだって聞いているんだ!」
「な、に言ってるか分かんないですっ」
必死に言い募る先生に月子の方が何が何なんだ!と叫びたくなる。
しかし、先生は止まらない。怒鳴り声はどんどん言い聞かせるような熱っぽさを帯びてくる。
鳥肌が立った。
「月子・・・・・・先生は月子のことが大好きなんだよ。本当に娘みたいに思ってるんだ・・・・・・これからだろう?月子はずっとここに居て・・・・・・」
「そんなこと聞いてないっ!」
掴まれていない手を振り上げて思いっきり先生を突き飛ばした。
少女と大人の男では力の差が歴然だが不意を突かれたらしい先生は思わず腕を離した。
さっと自分を守るように、両腕を抱きしめるように後退する。
「私の全部無いの!何で!」
月子の叫び声に別室の子達がぞろぞろと顔を出す。
「な、なんでもないよ。みんな。なにも心配いらないよ」
先生が無理やり顔に笑みを浮かべ皆をなだめようとする。
月子達の対立は傍目からも大丈夫には見えないんだろう。
誰も顔を引っ込めようとはしなかった。
「先生、私の荷物どこ」
掴まれていた腕はジンジンと痺れのような痛みを感じる。
月子は不機嫌さを隠しもせずもう一度口を開いた。
「あ、あぁ月子・・・・・・」
先生が一歩進めると月子は二歩下がる。
たくさんの視線の手前、これは不味いと悟ったのだろう。目で必死に合図を送ってくるが月子は毛の逆立った猫のように決して歩み寄ろうとはしなかった。
やがて、諦めたのは先生の方だった。
「月子、公園に行きなさい」
「公園?」
オウム返しに先生は真面目な顔で頷いた。
「公園だ。月子。君の事を迎えに来た人がいるんだ」
「は?」
逆立った毛が一気に重力通りになった。驚きすぎて瞬きまで忘れてしまう。
どういうこと、と尋ねるよりも事務室から電子音が響いた。
「また電話だ。月子。もう早くから待ってるんだよ。行きなさい」
いったい、なにが。
「誰か!代わりに出てくれないか?月子は今から向かいますと言ってくれればいい!」
いったい、なにが。

***
「お待ちしておりました。月子様」
月子は眩暈を堪えるのに必死だった。
黒塗りの高級車。滅多に見かけないものなのにもう3回目になる。
公園に向かう途中、たくさん考えた。
だけどちっともまとまらない。迎えって?私の荷物は?どうして公園?そんな疑問がぐるぐる頭の中を巡っている。
そんな心境を整理できないまま、公園に着いてしまった。
困惑を隠しきれず月子は尋ねた。
「・・・・・・あの・・・・・・私を迎えに来たんですか?」
「はい。突然のことで月子様も驚きと思います。申し訳ございませんでした」
「・・・・・・私のリボン」
「月子様のお荷物は僭越ですが先にお預かりいたしました。全て運び入れてございます」
センエツ、の意味が分からない。しかし荷物は無事らしい。
「どうぞお乗りください」
(わぁ、前にも聞いたことある気がする。デ・ジャヴだっけ)
月子の心境なんて全くお気づかいなくスーツの人は助手席のドアを開いた。
「おじゃまします・・・・・・」
ただ違ったのは誰も乗ってなかったということ。
ほんの少し拍子抜けしながら座る。
気が付いたら車は滑るように動き出していた。
「あ、の」
「はい。何でございましょう」
淀みのない返事に少々怯むが負けちゃいけない。
「迎えに来たって」
「はい」
「先生に急ぎなさいって言われて、迎えがきたって言われて・・・・・・」
言葉にするとどんどんこんがらがってきて何が聞きたいのか自分でも分からなくなってきた。
しかし、ミラー越しにスーツの人は一つ頷いてみせた。
「月子様が困惑なさるのも無理ありません。当方の都合でお急ぎ立てして申し訳ありませんでした。月子様にご不自由をおかけしないよう今後努めて参りますのでどうかご容赦下さい」
「あ、謝ってほしいわけじゃなくて、ですね」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。はぐらかさないで!と叫んでしまいたかったが月子自身、上手く尋ねられないのだ。何せ頭はまだ大混乱を起こしている。
結局口を開いても何も出てこなかった。諦めてシートにもたれかかる。
何かのテレビで見た。お金持ちが乗る車の運転手さんはコップの水が零れないほど静かで滑らかな運転をすると。
今、まさにそれを体感中であります。はい。

「月子様。到着致しました」
驚くことはいくつもあった。
声を掛けられるまで車が止まっていたことに気付かなかったこと。
勝手にドアが開いたので、お金持ちの車は自動ドア!と思ったが実際はスーツの人が回ってドアを開けてくれていたこと。
「おかえりなさいませ」
しかし、今回の驚きはそんなもんじゃない。
頭がもげそうな程高い天井に吊るされたシャンデリア。
軍隊ですか?と聞きたくなるほど動きの揃った従業員。隣を歩くスーツの人に負けずとも劣らずの立派なスーツを着こなした男の人ににこやかな笑顔を向けられ月子は固まった。笑えなかった。
「月子様?こちらです」
「お客様。どうぞお乗りください」
一体何が起こってるんだろう。と、今日何度目かの自問をする。
優雅なクラシックが控えめに流れている。足元には分厚い絨毯が敷き詰められていて足音一つしない。
時々大きな旅行鞄を持ってる人とすれ違う。
促されるままエレベーターに乗り込むと月子は自分の手の甲を抓ってみた。
もちろん、痛かった。
もう疑いようがない。ここはどこからどう見ても立派なホテルだった。
分厚い絨毯はエレベーターの中にも廊下にもしっかり続いている。
スーツの人に続いてエレベーターを降りた。
「こちらです」
重厚な扉をゆっくり2回ノックをするとスーツの人が胸からカードのようなものを取り出す。
ピッと電子音がした後ドアノブを引いた。
「どうぞお入り下さい」
「はっ?」
大人しく後ろを歩いていた月子は指先まで硬直させた。
高級ホテルだろうが何だろうが得体の知れない部屋に代わりは無い、と言い募ろうとするが先に相手が口を開いた。
「決して月子様に危害を加えるようなことは致しません」
そう、真っ向から言われ、迷ったように扉を見ていた月子だったが、やがてドアの向こうから溢れる柔らかな光に惹かれて恐る恐る足を踏み入れた。生まれて初めてのスウィートルームに。
漆黒の瞳。
アンティーク調のソファ、大理石のテーブル、大画面のテレビ。下品にならないようちりばめられた高級感の中で唯一見覚えのある深い黒色に月子は瞬いた。
「蜜夜君」