イノセント・ワールド


第二章「繋がった世界はまだ途切れていない」



「月子ちゃんどぉしたの?」
「・・・・・・な、何でもないよっ」
部屋の隅にあるカラーボックスを力いっぱい見つめていたら確かにどうしたの?
と言いたくなるだろう。
月子は少しだけ自分の行いを反省した。
蹴飛ばすことができなかった携帯電話は今、あのカラーボックスの中に入ってい
る。4人共同部屋の中で唯一プライベェトが確保できるからだ。
どうして良いのかわからなくて洋服の一番下に押し込んだ真っ黒の携帯電話。
最初はもしかしたら無いことに気づいて戻ってくるかもしれない。そう思って待ってみたがあの高級車は現れなかった。
おかげで門限を過ぎてしまいありがたくない説教を頂いた。ついでにハンカチも無くしてしまった。
もう、雨の日に公園に近づかない。月子が心の中で立てた誓いである。
「月子」
記憶は音からはじまる。
同室の女の子の声じゃない。すこしひび割れたような男の人の声を聞いた瞬間、頭の中をたくさんの音が通り抜ける。
涙混じりで小さな悲鳴。熱の籠ったくぐもった声。
「月子ちゃん?」
「う」
「どぉしたの?目あけたまま寝てたの?」
ヒラヒラ、目の前で手を振られ月子はぼやける視界を必死に瞬きで繋ぎとめた。
「お、きてる」
「先生が呼んでるよぉ」
あっち、と指さされて月子はようやく部屋のドアに目を向けた。
「月子」
立花先生がそこに立っていた。
ちょいちょい、手招きをされて月子は口をへの字にするとゆっくり立ち上がった。
拒否権はないと分かっているからだ。スローステップで動くのはせめてもの抵抗である。
たっぷり時間をかけてドアの傍に立つと先生は少し困ったような、いつもの笑顔で「お使いに行ってきて欲しいんだ」と言ってきた。
「今日私当番じゃない」
「月子に頼みたいんだ」
即座にそう言われ、への字口に頬まで膨らまし『嫌です』を精一杯アピールしてみる。
伸びてきて捕まえようとする大きな手を大きく一歩下がって避ける。
無駄だろうな、って分かってたし。ぷくぷく膨れた頬のまま月子はまるで猫のような身軽さで先生を避けながらドアを出た。
「いってらっしゃぁい」
のんびりした声のルームメイトが酷く苛立った。

「公園に行って欲しいんだ」
自分の名前が入った傘を手に月子は振り返った。
「公園?」
「ああ。雨が降ってるから気をつけて」
雨の日に公園に近づかない。月子が立てた誓いはあっさりと崩れた。

(変。変。変。私今日当番じゃないのに)
月子の機嫌は急降下し続けている。今なら北風にも負けない大きなため息をつくことができるくらいだ。しかも行き先は公園。一体何のお使いなんだ、と言いたい。
それでも何も言わず出てきたのは力ずく外へ出されるのが嫌だったから他にならない。
『児童養護施設ひだまりのうた』
そう掲げられたレンガ造りの門をくぐり抜け月子はゆったりと歩きだした。

時々大きな雫が傘を叩く。
しとしと、ぱたんっ。しとしと・・・・・・
水溜りを避けながらできるだけゆっくりと公園を目指す。
しとしと、ぱたんっ。しとしと・・・・・・
記憶は音からはじまる。この雨の音も記憶になっていつか思いだすのだ。
上書きされれば良いのに。忘れたい記憶があるのに。
そんな事を考える。
一週間前に聞いた、あの涙混じりで小さな悲鳴。熱の籠ったくぐもった声。
忘れてしまえれば良いのに。

「あ・・・・・・!」
声をあげて月子は思わず目を擦った。3回も瞬きをしてもう一度傘の向こうを見る。
見間違いじゃない。
一度だけ見たあの、高そうな車がそこに在った。
道の真ん中で動けなくなってしまう。
(どうしよう、どうしよう・・・・・・)
不意に車体が揺れた、ように見えた。
ドアが開いて人が降りてきて目が合った。
「お待ちしていました」
言葉はまっすぐと、月子に向けられた。
現れたのはこの間お迎えに来た人。今日もビシッとスーツを着こなしている。
「こ・・・・・・んにちは」
私のこと覚えてるんですか。どうしてここにいるんですか。私に何か用ですか。いろんな言葉がぐるぐると頭を回るのにどれも声に出なかった。
スーツの人は流れるような動きで車の後部座席のドアを開けた。
「どうぞお乗りください」
「の?」
乗る?誰が?何に?
月子が、この高級車に、そう理解するまでたっぷり10秒はかかった。
「・・・・・・い、いいです」
思わず後退しながら月子は首を横に振った。一緒に動いた傘から水滴が飛び散る。
知らない人についていってはいけません。それくらい知っている。
「月子様をお呼び立てしたのは当方です。雨の中ご足労をおかけいたしまして恐縮です。何分ご容赦ください」
例えば、この人が言葉の間に呪文を唱えていたとしても月子は気づかないかもしれない。
丁寧過ぎる言葉はむしろ失礼だ!
この人が私を呼んで、先生が言った用事はこの人のことだったんだ、と理解するまでに30秒かかった月子はようやく、車に、スーツの人ににじり寄った。
「どうぞ。足もとにお気を付け下さい」
近づいても、黒塗りの車はやはり高級感が漂っていた。
とりあえず施設のワゴン車よりも綺麗だ。
「お、おじゃまします・・・・・・あ!」
車の中には、人がいた。
まっすぐに向けられた視線に月子は動きを止めた。
漆黒の瞳に陶器のように白い肌。前に会った時は泥だらけだった人。
もちろん今日はそんなことなく、汚れ一つない無地のシャツを着ていた。
「立花月子」
名前を呼ばれた。この間のしわがれた老婆のような声じゃない。綺麗な声だった。
「はいっ?」
反射的に返事をしたものの何故この人が自分の名前を知っているのか。
「ハンカチに名前が入ってた」
「あ!」
そう言って差し出されたのはあの日無くしたとばかり思っていたハンカチだった。
「お兄ちゃんが持ってたの」
どうりでどこを探しても見つからない訳だ。
両手で受け取ったハンカチには丁寧にアイロンが掛けてあった。
「あ。私もお兄ちゃんの携帯持ってるの。でも今日会えるなんて思ってなかったから持ってきてないの。ごめんなさい」
数少ないハンカチが戻って来てくれたのは予想外のことで嬉しい。
月子は上機嫌でポケットに仕舞った。
「何で『お兄ちゃん』?」
心底不思議そうな言葉が降って来て月子の方が首を傾げた。
「何でって・・・・・・何で?まさかお姉ちゃんなの?」
「兄弟でもないのに」
ポツリと呟かれても月子にはますます何が不思議なのかが分からない。
「蜜夜」
「ん?」
「花の蜜に夜。蜜夜。それが僕の名前」
「蜜夜君?」
「・・・・・・そう」
そう、と言う割には不満げだった。しかし一体何が不満なのか月子には分からない。不満げでも肯定してくれたのだからわざわざ訂正する必要はない。月子はそう自己完結することにした。
「ハンカチ、ありがとう。携帯はとってくるね?」
もう会う事がないかもしれない。それに携帯電話だ。早く返したほうがいいだろう。
そう思って提案したが蜜夜は「いい」と言った。つまり否。
「え、でも無いと不便でしょ?」
「別に」
「・・・・・・」
そう言われたら取りに戻れない。
更に会話が止まっても蜜夜は月子から視線を外さなかった。
逆に月子の方がいたたまれず俯く。元々じっと顔を見て話しをすることは大の苦手だ。
黙っていても蜜夜の視線はひしひしと感じる。あまりの居心地の悪さに月子は必死で話題を探した。
「えーっと・・・・・・よく、私の事分かった・・・・・・ね?わざわざ探してくれたんでしょう?」
先生に呼ばれたということは先生に呼び出しを頼んだということ。つまり月子が『ひだまりのうた』にいることを調べたのだ。
何かが、頬に触れた。
反射的に後退るも蜜夜の手の方が早かった。
陶器のような手に顔を持ち上げられたかと思うと反対の手が前髪を掬う。
漆黒の瞳が驚くほど近くにあった。
「このあたりで『うさぎ』は君しかいなかった」

月子は思いっきり顔をしかめた。うさぎと呼ばれるのは何度聞いても人間扱いされていないようで気に入らない。赤い瞳に白い肌。月子の外見は確かにうさぎを沸騰させるものがあった。

月子の瞳の色は赤い。それは光の加減や見間違いでは済ませられないほど鮮明な赤で前髪を除けると白い肌と対照的すぎて目立つ。
それが嫌でわざと目にかかる長さまで前髪を伸ばしているのだが・・・・・・。
(そりゃあ、だけ至近距離で見つめあえばばれるよね)
初めて公園で会ったときだ。意識が朦朧としているみたいだったから気づかれてないと思っていたが甘かったらしい。
「・・・・・・離して」
「うん」
思ったよりもすんなりと手が離れていく。
できるだけ端に下がって距離をとるとその行動が理解できなかった、とでもいうように首を傾げられた。
アルビノ。俗称うさぎ。医学的には先天性白皮症と呼ばれるメラニンの欠乏による病気でもっと重度になると視力障害や皮膚病などを引き起こすという。
月子は今のところそういった障害はないが人は見た目が違うことに敏感だ。
月子のように軽度、つまり髪の色や肌の色は一般的な日本人で瞳だけ赤色がはっきりと表れるというタイプはここ10年ほどで爆発的に発症が増え100人に1人と言われている。
100人に1人なら珍しくもあるまい。医学的にはそう言えるかもしれない。
しかし、現実はそんなに甘くない。
99人から迫害されれば分かる。
故に月子は出来るだけ目立たないように、ばれないようにひっそりと生きてきた。
「うさぎって呼ばないで」
「僕は一般例を挙げたけど不快にしたのなら謝る」
悪気はなかったらしい。月子は少しだけ警戒心を解いた。
「・・・・・・人間じゃない、って言われてるみたいで嫌なの」
「そういうつもりじゃなかった」
「うん」
悪意のない視線だった。悪意のない言葉だった。
本当に人間扱いしていない人はこんなんじゃない。
記憶は音からはじまる。
『気持悪いっ!』『うちの子にうつったらどうするつもりなの!』『宇宙人が来たぞー!』
悪意は、際限なく広がっていくのだ。それこそ得体の知れない病原菌のように。
「私、帰るね」
どんどん嫌なことばかり思いだす。
「ハンカチ、ありがとう。蜜夜君の携帯は今度持ってくるね」
今度なんてあるか分からない。だけど今、月子は誰かと一緒に居るのが辛かった
蜜夜が悪い訳じゃない。月子の心の問題だ。
一度溢れだした嫌な記憶に上手に蓋が出来ない。
「また」
蜜夜は止めなかった。顔も見ないで帰ろうとする月子の後ろに投げかけられた一言。
思わず振り返ってしまう。
漆黒の瞳がじっと見つめていた。
これは、手を振るべきなのだろうか。
「お送り出来ず、申し訳ありません。どうぞお気をつけてお帰り下さいませ」
「わっ」
すぐ横から声が聞こえ吃驚してのけぞる。
スーツの人がわざわざ傘を開いて手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
結局、蜜夜には何も言えなかった。
ぺこり、と小さくお辞儀だけすると月子は一目散に駆けだした。
水溜りを踏んでしまい大きな音を立てる。
『化物!』
頭の中に響く昔の記憶を忘れたくて必死に走る。
雲の隙間からほんの少し青空が覗いていることに月子は気づかなかった。

いつかずっと書きたいと思っていたお話