イノセント・ワールド

記憶は音からはじまる。と思う。
「例えば?」
たとえば、傘を隔てた向こう側で雨が踊る音とか。



第一章「世界が繋がる」


サー・・・・・・サー・・・・・・パタンッ・・・・・・トトッ・・・・・・
雨雲が空を埋め尽くしている。
太陽の光を遮ってそれだけで世界はくすんだ色になる。
ビルもアスファルトも人さえも。だけどそこが良い。傘を差してしまえば無関心になる、と言わんばかりなところが良い。
公園を歩いていた月子は傘を両手で握りしめると歩みを止めた。

「・・・・・・あの、生きてますか?」

桜の下には死体がある。それは聞いたことがある。
だけど紫陽花の横に死体があるなんて聞いたことない。
しかし、今月子の目の前には色鮮やかな紫陽花と俯せに倒れた人間があった。
「・・・・・・もしもぉし」
大変だ、と思いながらもどこか冷静に観察している自分がいた。
例えば解りやすく血まみれとか体がどっかちょん切れてるとか、そう見るからに
大変だ!なら声を上げたり交番に駆け込んだかもしれない。
だけどこの人は服は血まみれじゃなくて泥だらけ。
見える範囲の両手足もくっついてる。
「・・・・・・っ」
「あ」
傘を持ち直した瞬間、その人は寝返りを打った。

「・・・・・・誰?」
「しゃべった!」
「・・・・・・おかしい?」
そう言われるとおかしいことじゃない。
月子は首を横に振った。
「ううん。寝てたの?」
とても眠る環境に適しているとは言い難いが世の中には色んな人がいる。
寝返りを打った拍子に見えた顔はやっぱり土がついていて、瞼はくっついたまま月子を映すことはなかった。
「ここで寝たら風邪ひくよ」
「・・・・・・僕もそう思う」
酷く掠れた声はまるで老婆のようだった。
「具合、悪いの?病院行く?誰か呼んでこようか?」
「・・・・・・電話」
「・・・・・・でんわ?」
瞳は固く閉じたまま唇だけが僅かに動く。
「・・・・・・電話かけて」
泥がついた手でポケットから出したのは真っ黒い携帯電話。
思わず受け取ると手は力尽きたと言わんばかりに動かなくなった。
「どこにかけるの?」
返事が返ってこない。
月子は恐る恐る携帯電話に指を滑らせる。
ボタンは一つもなく、液晶画面に直接触れないといけない。
ピカピカの画面に指で触れるのはどうも勇気がいる。
「あ、あっ」
画面にincomingの文字。
まだ電話帳を見つけていないのでリダイヤルを押してしまったのか誰かから掛か
ってきたのか。
「も、もしもっ」
「ミツヤ様?」
ミツヤさま?
「あ、あの・・・・・・私・・・・・・電話して、って頼まれて・・・・・・」
言葉に詰まると電話口から先に声が聞こえてくる。
「失礼ですが今どちらにいらっしゃいますか」
月子はたどたどしく公園と近くにある大きな建物の名前を告げた。
「解りました。今から参りますとミツヤ様にお伝え下さい」
電話口から声が聞こえなくなって月子はそっと耳元から携帯電話を外した。
「来るって」
一応伝えてみたけど返事はない。
(・・・・・・遅くなったら怒られるのに)
ただ、紫陽花を見にきただけだった。
雨が降っていればみんな傘を差していて、それは月子にとって都合が良かった。
公園で色鮮やかに咲き誇っているという紫陽花を見てみたかった。
きっと部屋で本を読んでいたら、友達と喋っていたら、こんな泥まみれで眠るような人と出会ったりしなかっただろう。
こんなに困ることにならなかった。
(・・・・・・だけど放っておけない、し)
せめて雨が当たらないところに連れていくべきか。確か公園の奥には小さな東屋があったはずだ。
「寒くない?」
やっぱり返事はない。
無理だ。月子は瞬時に諦めた。自分より大きな人間、1人で運べる訳ない。
雨が泥まみれの顔を濡らしてゆく。
月子は少し考えて顔だけでも傘に入るように距離を縮めた。それから傘を片手に持ち直して右手をポケットに突っ込む。
(・・・・・・数少ないハンカチなんだけどな)
ポケットから出したチェック柄のハンカチでそっと泥を拭う。
すると固く閉じられていた瞼が震えた。
「痛い?」
拭った下に怪我でもしているのか、と思ったがハンカチには泥しか付いていない。
「・・・・・・痛くない」
「電話、したよ。迎えに来るって」
「・・・・・・そう」
ハンカチを当てた部分から現れる陶器のような肌。
てっきりおじさんとばかり思っていたが・・・・・・。
(お兄ちゃん、だぁ)
月子よりは年上だろうが若い。
(・・・・・・)
陶器のような肌は白く、頬にすら色がのっていない。
・・・・・・もしかしてすごぉく具合が悪いんじゃないだろうか。
ハンカチを膝の上に乗せて(泥まみれだもの。ポケットに仕舞えない)月子は本物の陶器に、壊れ物に触れるように、頬に手を伸ばした。
冷たい。
この人はいったいどれだけここにいたんだろう。
「・・・・・・」
その時、初めて月子と瞳が合った。開かれた瞳は美しい漆黒色。
月子のとは全く違う。
「・・・・・・それ」
「うん?」
漆黒色の瞳は潤んだまま。
「あ、手、邪魔?」
「・・・・・・違う」
「んん?」
「・・・・・・」
よくわからなくて手を引っ込めようとすると擦り寄ってくる。
「もしかして・・・・・・気持ち良い?」
「・・・・・・」
返事はない、けど・・・・・・。
この冷えきった身体に手の温度は丁度良いのかもしれない。
・・・・・・どうせ気になってここから動けないのだ。そんなことを思いながら月子は手の温度くらい、とそのまま分けてあげることにした。
手を当てた頬からわずかな振動を伝え、泥まみれでもこの人は生きているのだと教えてくれる。
粒というよりは霧に近い雨は葉っぱの上に溜まると音を立てて落ちてくる。
・・・・・・トッ・・・・・・パタン・・・・・・。
こんなジメジメした天気に公園に行こうなんて奇特な人間は月子と泥まみれのこの人だけで、月子はしばし1人で紫陽花を眺めていた。

「ミツヤ様!」
声に驚き、月子は尻餅までついてしまった。
(スカートが汚れた!)
「ミツヤ様、ご無事で何よりです」
ぽかんと現れた人を見つめる。
スーツをキチンと着た大人の男の人。
「・・・・・・セノ」
「起き上がれますか」
自分が言われた訳じゃないのに月子は慌ててスカートを押さえて立ち上がった。
スカートが冷たい。
傘もズレて髪の毛がじっとりと湿ってきた。
スーツの人は月子には全く動かせなかった泥だらけの身体を抱えるとそのまま立ち上がった。
そこで初めてスーツの人と目が合った。
「先程お電話して下さったのは貴女ですよね」
私に喋りかけてきた!
普段聞かない、とても丁寧な言葉遣いにドキドキする。
「は、はい」
「ありがとうございました。後日改めてお礼に伺います」
まるで流れるような仕種でそう挨拶をされ月子は慌ててはい、ともいいえ、ともつかないくぐもった返事をした。
「それでは失礼致します」
停めてあった車は詳しくないけど高そうで。
(あ)
ドアが閉められる寸前、目があった。
泥だらけなのに瞳だけは輝いている。とても美しい漆黒色と。
車は灰色の世界に消えるように小さくなっていく。
何故か見えなくなるまで見送って、月子はようやく傘を持ち直した。
(お礼、なんてシャコオジレイだ)
だってあの人に月子は名前も教えてない。
傘を握り直して月子は歩きだした。
カツン、と爪先に石ころがぶつかる。
何だかそれすらもムカムカして遠くまで飛ばしてしまおうともう一度足を引いた。
「・・・・・・あ!」
石ころじゃなかった。
真っ黒なそれは雨に濡れて輝いて見える。
携帯電話だった。

いつかずっと書きたいと思っていたお話