柩で眠らない少年と柩で眠らない子供


陽の光が身体をすり抜ける。だから僕の足元に影は無い。
「わきゃーっ。そう言えばそうですねー。わっちは、あたし、私、は今まで気付いたこともありませんでやんす!」
くるり、くるり、と薄汚れたシャツが舞う。サイズの合わない大人物のシャツをまるでワンピースのように着ている幼子は見てくれと同じくらいちぐはぐな言葉遣いだった。
それでも楽しそうに笑う姿を見て僕は感心する。
「にーさんは今日もここにいるんでしょぉか?」
くりん、と大きな瞳が見上げてくる。青い、海のような色をした瞳。
「うん。今日もここにいるよ」
「わっきゃーっ!嬉しいでっす。ではでは今日も色々教えてくださいましでし!約束でやんす!」
「うん。良いよ」
「にーさん優しいです!」
それはそれは嬉しそうに笑う。何をしても楽しい年頃、というやつ何だろうか。
この3日間、幼子は笑顔を絶やした事が無かった。
「あっお母さんが起きたですね!朝じゃないけどおっはよぉーございます!」
小さな椛のような手を広げて拍手を始めた。
「んっ・・・・・・ちょっ、もぉ」
気持ち悪い声だなぁ、と素直に思う。甘ったるい、雌が雄を捕らえるためだけの声だ。
「お母さん、お母さん。起きませんですかぁ?」
「悪戯しなぁいのぉ・・・・・・」
もぞ、と部屋の真ん中に敷かれた布団が動く。
ぬるり、と脚が見える。この小さな四角の中に蠢いているうちの一つだ。
「二度寝するんじゃない?」
母親に意識の全てを持って行った子供を連れて外へ出たい。幽霊になって嗅覚は無くなってしまったがこの部屋にはきっと嫌な匂いが満ちているに違いない。
汗と煙草と酒と、それから。
「良いじゃんか。どうせまだ起きるつもりないんだろ」
布団から覗く4本の素足。絡みついている、そう、まるで蛸のように。
二度寝、と言ったものが違う意味で現実になりそうだった。
そっと隣をうかがい見れば青い瞳は真っすぐ布団を見つめている。
「やっぱり起きないですますか?」
「そうみたいだね」
目の前で夜伽(夜じゃないけど)を披露されるのか、と僕は少し疲れた声になっていたのかもしれない。
「君はどうするの?」
「にーさんとお話しながら待ちますよぉ」
会話の合間に獣の声がする。やっぱり僕は性欲というものも欠けているようだ。
全く興奮しない。
「せーこーしょーはまだまだ続きそうでありんすなぁ」
「そうだね」
「にーさん。お母さんはきっともうすぐわっち、あたし、私を呼ぶでありんす!」
「君のことを?」
「あいっ」
布団の中から聞こえる女の、雌の、子供の母親の声が一段と響く。
ざっくばらんな髪を揺らして、椛のような手を伸ばして、青い目をした子供は笑う。
「ねっ。にーさん!」
「確かに声が聞こえて言葉だったと僕にも理解できた。だけどそれが君の名前かどうかは分からないな」
青い瞳が瞬く。斑な白。青紫。あぁ、なんて色鮮やかなんだろう
「わっち、あたし、私の名前です。よ?」
「名前も愛称も要は個別認識するためのものだから君が今のを自分の名前だというなら特に否定はしないよ。僕が決めることじゃないからね」
「むぅー。にーさんの言うことは頭がぐるぐるなるでやんすっ」
「思考が止まらないことは良いことだよ」
「良いこと?良い子って意味でしょーか?」
「そうかもね」
「わっち、あたし、私にーさんの事好きです!お母さんの次に好きです!にゃあ!」
「そう」
目の前の布団では濃厚な愛の営み。ひときわ女の高い声が響いたかと思うとバサリ、と布団が捲れた。
裸の女が乱れた髪を手櫛で整えながら立ちあがった。ぎょろり、とした目は子供と全然似ていない。
「餓鬼の面倒見なくて良くなったんだし、まだ良いだろ」
「やだっ思い出させないでよぉ・・・・・・アレのことなんて」
僕の隣にいる子供は両手を叩いて笑っていた。
「にーさんっにーさん!また呼んでくれたですよぉ!」
「嬉しいの?」
「はいっ!」
相互理解、という言葉があるけど僕は人間に不必要な言葉だと思う。
他人を理解する、なんて見せかけだ。
人間は永遠に孤独で決して2つが1つになれないから、美しいのだ。
「アレ」
「んにゃっ。にーさん今わっち、あたし、私の事呼んでくれたでありんすですか?」
青い目の子供はアレ、を自分の名前だという。
他に母親から呼ばれたことがないそうだ。現にそう。ここに来てこの子と一緒にいても決して『名前』を呼ばれることはなかった。
ただの一言も呟かれることなく幾日も過ぎていった。
母親が名前を呼ぶのは抱きに来る男だけ。
「外に出ようとは思わないの?」
こてん、と子供の首が傾く。
「お母さんがいるですよ。だからわっち、あたし、私は家にいるでやんす」
「でも君は、もう此処にいないだろう?」
「にゃにゃー?」
子供は、いつだって無垢だ。
だから僕はいつだって現実を示す。

「昨日の夜、君の遺体は切断されて、山中に捨てられただろう?」

母親と呼んでいる人間に。
僕が初めて『アレ』に会った時、既に人間じゃなかった。
自分は押入れにいるのだという、だけど重たくて動かなかったから静かに出てきた。
そう言った。
「もうこの場所にこだわる必要は無いよ」
「むぅー。にーさん、此処には、この場所にはお母さんがいるでありんす」
「僕が常識だと思っていることが君の常識と一致する可能性は著しく低いね」
「わっち、あたし、私、にーさんを困らせてるですか?」
「気にしなくて良いよ。常識は偏見した知識以外の何物でもない」
少し言葉を探す。僕にしては珍しい行為だった。
「母親の目に『アレ』が映ることはない。生きている人間に僕らは見えないんだよ」
青い瞳が瞬く。『アレ』は自分の掌を見つめてそれからもう一度僕を見た。
「わっち、あたし、私は生きてる人間じゃないんで、ありんすか?」
あぁ、まさかそんな所から気付いていなかったなんて。
『アレ』はアメーバーのように身体が二つに分かれたと思っていたのか、それとも幽霊という存在を知らなかったのか。きっとどちらでもない。
「ふ、し、ぎ。でありんすですなぁ。わっち、あたし、私、は変わらずお母さんが見えるんですにゃー?」
「そうだね、不思議だね。君の目眼球は今頃地中深く潜っているのに」
血を流して、左目は潰れていた。それが僕には少しだけ残念だった。
また、青い色が瞬く。
「にーさんは、どうして。わっち、あたし、私を外に誘ってくれるんでしょぉか?」
僕は目を細めた。ほんの少し視界が狭まっただけで何も変わらないこの世界。
歪な世界。
「・・・・・・青が好きだからかな」
ここはとても歪な世界。死してなお、世界に取り残されてしまった子供。
無垢というのは一種の才能なのだ。そして罪でもある。
『アレ』はどうして自分が死んだのか、知らないだろう。母親に殺されたという概念が無い。空っぽになった自分の身体が切断される様をただ、喜んでいた。
「にーさん!にーさん!赤色綺麗でっす!お母さん綺麗ですね!」
血まみれの母親を喜ぶ姿は名前を呼ばれるときと同じくらい弾んでいた。
青い瞳で見ている世界はどこもかしこも美しく見えるんだろうか。思わずそんなことを考えたくらいだ。
母親から育児放棄され、その愛人から暴力を受け、挙句殺された子供は死んでも尚世界と交わらないという。
「たとえば、たとえばです。にーさんと一緒に行ったらわっち、あたし、私はどうなるんでしょぉ、か?」
「どうなる、っていうのは抽象的すぎるな。僕は君を黄泉平坂まで連れていく訳じゃない。君は何も変わらないよ。せいぜい此処じゃない何処かに、だ」
「此処じゃない何処か」
「そう」
「ふふっアレが居なくなって本当に良かった」
唐突に、部屋の中に笑い声が響く。
「居なくなって、声も聞こえなくて、顔も見えなくて ふふっ。ようやく私は自由なんだ。子供なんて、欲しくなかったんだから」
「にーさんっ聞きました?お母さんがすっごく嬉しそうですよ!わっち、あたし、私もにこぉってしたくなりますなぁ!ですですにゃー!」
子供と大人の笑い声の不協和音。言葉の意味なんて少しも理解していないアレはただ、母親が喜んでいるという事実だけしか受け止めていない。
無垢とは決して僕が得られないもの。性善説だって信じていない。
だからアレが気になるんだろうか。確かに突拍子もない事という子供だけどそれだけで3日間も一緒にいたなんて好奇心だけ、なんて有り得ない。
「僕には君が見えるし触ることもできる」
「にゃにゃ?」
「でも君の母親はそのうち君のことを呼ばなくなる。人の記憶はとてもあやふやで特にどうでもいいことは思いださなくなるものだから。忘れるんじゃない、思い出す、という概念が無くなるんだ」
「そーなんでありんすか?」
「僕はそう思ってる。理解を求めてるんじゃなくて、僕個人の意見だから気にしなくて良いよ」
僕個人、なんて可笑しな言葉だろう。
「んんー?にーさんが、気にしないで、っていうなら気にしないですます、よ?
青が好きで、わっち、あたし、私のことを此処じゃない何処かへ連れて行くにーさん」
無垢で、だけど頭が悪い訳じゃない子供は僕の言った言葉を繰り返す。
青い瞳を瞬かせて小さな椛のような手が重なった。僕は少し驚く。
どれだけ言葉を募ってもこの子供が動くことはない、と思っていたのに。
無垢とは、そういうものだと思っていたから。
「行くの?」
「行かないでありんすですか?」
母親にさよなら、も言わず子供がふわりと窓をすり抜ける。僕も一緒に外に出る。
良いの?と尋ねるべきか悩んだけれどそれより早く青い瞳が見上げてきた。
「にーさん。わっち、あたし、私はずぅっと言われてたんですにゃぁ。出て行けって。顔も見たくないって。だけど動くなって。だから押入れに居たんでありんす、よぉ。顔が見えなくても押入れの向こうでお母さんが居るの分かってたんですよぅ。難しいのです。出て行けって言われても視界に入らないでなぁんて言われたらお外には行けないんですよう。
でもでも、これでお母さんを思い出すことは無いです。だって、忘れないんですから。そしたら思い出って、出 来ないでしょう?」
青い瞳は、三日月に細められる。逆に僕は目を丸くしてしまった。
「そう、だね」
そうか、これが無垢ということか。
さよならをしない。別れじゃない。そう信じてるんだね。
驚く、知りたい。この子供ともう少し話しがしたいと思う。だから僕はまだ此処にいる。
だけどアレは何でまだ此処にいるんだろう。そう考える。
そう考えることで僕はまだ消えない。
「アレ」
「はぁい。何でありんすか?にーさん!」

「僕は君が好きだよ」
とっても可愛い人間だから。