好きになって。誰よりも

他に誰もいらない


朝起きてお腹が空いたらビスケットをかじる。

テレビはなくて時々ラジオはつける。

殺風景な部屋には古ぼけたテーブルと畳まれた布団

・・・私は死なないために生きているのだ






形と色とそれから温度のないもの




「ちゃん」

バイトに行こうと玄関を出た所で振り返る

アパートの大家さんが箒を手に立っていた

「おはようございます。マキノさん」

「おはよう。これからお仕事?」

「はい。あの、いつも掃除ありがとうございます」

マキノが目を丸くして、それからコロコロと笑った

が住んでるこのアパートは古い。しかし毎日大家のマキノが掃除をしてくれるので寂れた感じはなく、申し分程度の花壇にも四季折々の花が咲いていた

おっとりとしているようで働き者。

そんなマキノがは好きだった

「あ、ちゃん」

「はい?」

少しトーンを落としたマキノにつられても顔を寄せる

「最近ね、このあたりで不審者が出てるみたいなの」

ドクンと心臓が大きく跳ねる

「実際何があったとかはまだ聞いてないけど・・・私もポスト覗き込んでる男の人を見たばっかりだったから気になって

 ・・・ちゃんも気をつけたほうが良いわ。夜遅くならないようにね?」

「・・・はい」

やっとの思いで返事をした。

血の気が引いてゆくのを感じる。

(なんで。また?どうして)

まだ此処に居たいという甘えた感情とはやく逃げないとという焦燥感がを責め合う

堪らなくて泣いてしまいたかった

(どうしよう)

答えは決まっているのに悩む自分が嫌いだ。大嫌い。

(・・・どうしよう。ロー)

助けて、なんて言えないのに

***

にぎやかな商店街を足早に通り抜ける

・・・結局何も浮かばなかった

ただ焦りばかり酷くなって仕事はいつもならしないミスをした

コビー君に「何かあったの?」と心配されたけど言えるわけない

杞憂かもしれないのだ。それかいつもの頭の可笑しいストーカーかもしれない。

・・・万に一の不安をぶちまけるなんて子供のすることだ

(2年間逃げてきた相手に捕まるかもしれない。なんて)

逃げて、逃げて、逃げて。一体どこまで行けば捕まらないんだろう

そう思うと携帯は握りしめるだけで誰にも連絡できない

そうして足は何時も通りアパートの前にたどり着いた。

(・・・誰かいる)

それも、の部屋の前。冷や汗が背中を伝う。

携帯握る手を後ろに回し、足は根が張ったかのように動かなくなった

だって、此処に来る人は僅かしかいない

夕闇のせいでからは後ろ姿・・・それも足元しか見えない。革靴。

男だ

心臓が煩いくらいに鳴り、身体が震える

まさか、本当に・・・

「・・・?」

揺らいでいた視界が急に鮮明になった

「・・・だろい?」

涙を散らすように瞬きを繰り返す。コツ、革靴が軽やかな音を立てる

夕日が、影が、ようやく顔を見せた

「久しぶりだねい」

独特な口調。どこか眠たげな瞳。

「マルコさん・・・?」

ふわり、煙草の匂いを風が運んだ

***

父のことはもう朧げだがの性格は父親似だと母はよく笑って言った

「ますますお母さんに似ていくねい」

マルコさんは感慨深げに呟いた。顔は確かに母親似だがは何も言わず目を伏せた。彼と会うのは何年ぶりだろうか

一年・・・いや二年か

ますます、というのはそういう事だろう

カラン、と涼やかな音がする。

アンティーク調のドアは静かに閉じられた

家の近くの喫茶店は良く言えば隠れ家的、悪く言えば寂れていてつまるところお客さんが少ない

「一人暮らしの女の子が簡単に家に上げるもんじゃないよい」

と、マルコさんが言うので選んだのがこの喫茶店だった。

・・・まぁ確かに人を招くに向いた部屋とは言い難いな。物が少ないし両親を偲ぶものは一枚の家族写真。仏壇もない。

「いつも帰りこれくらいなのかい?」

彼は、マルコさんは父の部下だったという。

父が白ひげコーポレーションなんて大企業で働いていたことをが知ったのは母が亡くなった後だった

「・・・いつもって訳じゃないです。仕事不規則なので」

「遅くまで働くこともあるのかい?」

曖昧な笑みを浮かべる。わざわざ言う必要を感じないからだ

マルコさんは何というか変わってる。昔の上司の娘なんて殆ど他人なのにこうして訪ねてきて・・・また助けてくれようとしているんだ

「・・・には迷惑だろうが・・・心配なんだよい」

思わず瞬いた

「迷惑なんて、思わないです」

彼は、優しい人なのだ

最初に会った時から優しい人だった。

「むしろマルコさんに迷惑かけてるんだなぁって、自分が情けなくて」

一人で生きていけたら素敵なのに。

「おれの方こそ迷惑なんて思っちゃいないよい」

優しく笑う姿にも知らず知らず肩の力が抜けた

ローが私と世界を繋ぎとめる鎖ならマルコさんは世界で生きる術を与えてくれた

母が亡くなって初七日も終わらないうちに私は父の弟にあたる人物に引き取られた。

家を引き払い、学校を辞めさせられて・・・まぁその辺りを思い出すのはあんまり得意じゃない。

とにかくそんな芳しくない状態だった私に母の死亡保険金の受け取り方法から通信学校への編入手続きまで色々とお世話になったのだ

ほっとしたら空気が伝わったらしい。マルコさんも幾分柔らかい雰囲気で、ぽつぽつと会話が進む

運ばれてきたミルクティーのじんわりと甘さが染み渡り強張った顔も少しずつ解れるようだった

「さえ良ければいつでもウチに来いよい。オヤジ・・・白ひげの社長も大歓迎だって言ってたよい」

思わずミルクティを吹き出しそうになった。

縁故採用とか!

白ひげの社長といえば世界規模の著名人である。

幼い頃そんな偉い人だとは知らず遊んで貰ったりしたらしいが・・・幼いって恐ろしい!

昔のことを思い出しながらも少し、心が揺れている自分がいた

確かに白ひげコーポレーションほどの労働条件に合う会社は無いだろう

にとって必要なのは給与でも福利厚生でもない。その点の事情を知っているということはこの上ない魅力だ

しかし、マルコには充分良くして貰っている

これ以上甘えてはいけない、と自分を戒めた

「あの、マルコさん今日はどうして?」

「ん・・・、特に理由は無いよい。どうしてるか気になってねい」

「・・・私は変わりませんよ」


だって変わることは怖い。

良くも悪くも変化していない。・・・そうであろうと努めている。

何処か淋しげな顔をするマルコさんに気付かないフリをした

それから何事も無かったようにマルコさんと別れ、いつもどおりの日々を送る

どうして急にマルコさんが訪ねてきたのか、理解したのはその5日後。

病院へ緊急搬送されながらのことだった